thu, mar 31, 2016

そのひとがここにいないということは、そのひとが生きているか死んでいるかに関係しない。なのに、そのひとが死んだと知ってしまったいま、足元の地面が崩れてしまいそうだ。

死とは、それほどまでに特別なのか。いや、ちがう、特別なのは生の方だ。そうだ、これからは、話したいひとともっと話そう。会いたいひとにはためらわず会いにいこう。

でもなあ、そう思うのはいまだけで、あしたになったら、またいつものとおりにもどるのだ。特別な生のなかの特別でない日常に。

それでいいんですよね、と問いかけてみても、この声が届かないことは知っている。亡骸を前に手を合わせ、無音の声を、タミヤは投げかけた。

wed, jan 27, 2016

ミチオは高層ビル内の廊下を歩いている。
さきほど受診した内科で眼科への紹介状を渡され、同じフロアにある眼科医院のドアを、いま開けた。
大きな空間が広がった。こぢんまりとした受付と待合室があると思いこんでいたミチオはすこし驚いた。窓が見え、そこから向かいのビルが間近に見えた。受付カウンターと待合のベンチと検査機器が整然と混在していて、片隅にカーテンで仕切られた小さな診察室があった。そのカーテンは電動だった。
この混じり具合、専用より兼用、そして大きく開けた場所。ミチオの好みだった。しばらくして検査がはじまった。

tue, jan 5, 2016

大通り沿いの家に住んでいるセイヤは、休日になると表通りが普段とうってかわって静まりかえるのが好きだった。クルマも走らない。ひともいない。まるで正月みたいだ。街が休んでいる。みんな寝ている。仕事がはかどりそうな気がする。といっても休日に仕事をするほどセイヤは忙しくはない。音楽もかけず、窓の外を眺め、なにをするわけでもなく、ただ太陽が動くにまかせている。そのうちまどろみが訪れる……。

静寂を破るのは、ときにはドアホンの呼び出し音だ。馴染みの配達員と形式的な挨拶を交わして荷物を受け取った。差出人に覚えがない。宛名は確かにセイヤにだったから、誰かからの贈り物だろうか。品物欄に「お品」と書かれた60サイズの段ボール箱は、持ち重りした。

the, oct 22, 2015

会社員のニシオカは通勤のとき、スーツの肩にバッグをかける。そのことを妻がやんわりと非難する。スーツの型崩れをいうのではない。スーツを着たときにはバッグは手に持つものだ、という行儀のことをいうのだ。
ニシオカは耳を貸さない。ニシオカのバッグには書類やらノートPCやらで重さは三キロを超える。こんなものをずっと手にもっていたら握力がなくなってしまってキーボードを叩けなくなる。またこのビジネス用のバッグには肩にかけるためのストラップが元からついているのだ。それを肩にかけて、なにがわるいというのか。ラッシュ時のターミナル駅の光景を見てみればよい、とニシオカは思う。皆、同じように、スーツの肩にバッグかけて歩いているではないか。

ニシオカが勤める会社はクールビズを採用している。夏場は半袖のシャツにネクタイはしめない。暑がりのニシオカは上着を着用する季節でも、ときおり上着を脱ぎ、半袖のシャツにネクタイの姿になる。そのことを部下が諫める。課長、スーツの下に半袖のシャツは着ちゃダメです、それと半袖のシャツにネクタイもダメ、と。この優男は夏でも上着を着て、ネクタイはしめないものの長袖のシャツの袖をいつも上着の袖口からのぞかせている。おおかた、客先へ向かうとき、服装に頓着のない上司と並んで歩くのが嫌なのだろう。
ニシオカは部下に従う気はない。一方、部下はニシオカに従わねばならない。優男がニシオカよりも優秀な業務成績を残せば、簡単にニシオカを超えて上席に座ることができる。だがそんなことはこのさき何年経っても起こりえないことをニシオカはわかっているし、部下もまたわかっていた。

足が蒸れやすいニシオカは社内では靴をサンダルに履き替えている。サンダルと言ってもニシオカのそれはゾウリと呼んだ方いい代物だ。そのことを部内の若い女性がダサいという。履き替えたいならもっと格好のいいものを履いたらどうか、せめて昼食に外出するときは靴の方いい、と。
部内の懇親会でいつも同じことを言われても、ニシオカは気のない返事で受け流す。するとこの女はすぐに厭きてしまい別の話題へ移る。そこから話は脈略なくあちこちに飛んでゆく。そうしてニシオカは若くて聡明な女性の未熟な人生観と世間の見方を観察する。

定時に退社して駅に向う道の途中、右肩に衝撃を受けた。乱暴な自転車が通り過ぎていった。ニシオカのビニル製のバッグはストラップの根元がはずれ、3.3キログラムの塊がサンダル履きの足の甲に落下した。

sun, oct 11, 2015

遠縁の葬儀に参列したカズオは故人の足元に花を手向けたあと、後列に立ち位置を定め、時間が過ぎるのを神妙に待った。
そのうち、棺を囲むひとたちが故人に話しかける声が聞こえはじめた。死んだ者はここにはいない。どこにもいない。声をかけても届かない。届くのは、自分自身と会葬者の耳にだけ。その思いを自分自身と会葬者の耳に聞こえるように声にするのは、たぶん、この悲しみを分かち合い、共に乗り越えようとするからなのだろう、と五十を過ぎたカズオは理解している。
死とは生きている者のものなのだ。では死者自身はどこにいるのか。そんなことをぼんやり考えていると、会葬者の嗚咽が音量が徐々に高まってきた。
そのとき、カズオの背後で若い母親に抱かれた幼児がまるで発音の練習をするかのように覚えたばかりの言葉を声にした。「モーオワッター?モーオワッター?」

wed, sep 30, 2015

会田の袖はいつも汚れている。洗い立てのシャツの袖が昼にはもう汚れているのだ。同僚からは「会田・袖」と呼ばれている。

助手の風呂林は昇進しない。「助手・風呂林」。

バル好きの「バル・木村」。

sun, sep 20, 2015

ヤスシの事務所にはインターンやアルバイトの学生が数人、出入りしている。

新人の学生がはじめて事務所にやってくる日、ヤスシは彼ら彼女らにあることを仕掛ける。便所にある便器のリモコンの電池を抜いておくのだ。リモコンが利かないとシャワーもでないし、温風もでない。そこまではいいとして、問題は、流れない。このちょっとだけ厄介な状況を切り抜けられるかどうか。

流すボタンは便器本体にもついている。このことを知っている、または推測できた新人は軽くパスできる。ただこのボタンはみつけにくい。かたちもわかりにくい。レバーではなくボタンだから。存在を知らない者が偶然みつけることは少ない。さらに便器の電源プラグも抜かれている。便器にコンセントが必要なことを知らなければ、ここでパスすることはできない。

壁についているリモコンの電源が電池かもしれないと気づけば、電池切れを疑える。では電池はどこに入っているのか。側面に見あたらないとき、リモコン本体が壁にひっかけてあるだけと発見できればかなりの前進だ。

リモコンを壁からとりはずせば、背面に電池収納部がみつかる。そしてその蓋を開けて、中に電池が入っていないのを見たときには、すこしばかり狼狽するかもしれないが、スペアの電池を物入れの中にみつけるのはすぐのことだ。だが、この新しいはずの電気が空だとわかるのもまたすぐのことなのだ。

ヤスシは黙って、水流の音とともに新人が生還するのを待っている。

thu, sep 17, 2015

インテリアデザイナーのトミナガは胡蝶蘭を嫌っている。
ショップの新装開店時にいつも玄関先にならぶあのコチョウランを。
もはや花の色やかたちや香りなどはどうでもいい。開店祝いにはコチョウラン、高価な花コチョウラン、これを送っておけば文句なしのコチョウラン。記号と化したコチョウランのならぶ様は、祝意の集まりというより、むしろシガラミの数々にしかトミナガにはみえない。
そんなデザイナーの心持ちをよく知る親しい店主などは、トミナガが訪れる際にはわざわざコチョウランをバックヤードに仕舞い込むことすらあり、偏屈者を恐縮させた。

トミナガはあるとき、友人の建築家が設計した家を訪ねた。
女性の主がひとりで住む瀟洒な家。キッチンの隅に一輪のコチョウランをみつけた。たった一輪の。
竣工時に知り合いから贈られた大量のコチョウランをすべて枯らしたあと、種から育てて開花させたのだという。
「これで1万円儲かったわ。はははー」
白髪の女性は金持ちに似合わぬことを言い放ち、快活に笑った。
白い2枚の花弁とそれを背後から支えるような3枚の萼片、そしてほのかに黄色みがかった中央の唇弁に見入り、トミナガははじめてこの花を美しいと感じた。

mon, sep 14, 2015

後輩の葬儀のあと、ヤスシは駅のホームで上着を脱いで肩にかけた。
ポケットに入れていた数珠が床に落ちて乾いた音をたてた。
九月。朝起きたときは肌寒かったが、いまは日が照っていて暑い。車窓から遠く山の端がにじんでる。よく晴れた空に雲が斜めにかかっていた。
後輩は病床にいながらケータイを握りしめて仕事をしていたそうだ。ヤスシは事務所に戻ったらきょう中に仕上げないといけない仕事が残っていたが、どうにもやる気がしない。
乗換駅のホームに降りて階段を上り始めたとき、ケータイが鳴った。マナーモードにしてなかったことに気づいて冷や汗がでたが、気を取り直して電話に出た。現場からだった。

sat, sep 12, 2015

人面瘡といえば、膝にできるものだが、アキオのジンメンソは顔にできた。本来あるべきところに顔があるわけだから、何の変哲もないジンメンソだ。他人は気づかない。
ジンメンソはアキオに代わって勝手なことを喋る。アキオが思ってもいないことを笑顔で喋り、相手も笑っている。アキオだけがむかついている。
ときどきアキオにも話しかけてくる。だが、アキオには顔がないから返事ができず、意思の疎通ははかれない。
幸いなことに、ジンメンソは飯を喰わない。口に入れた物はすべてアキオの食道を通って、アキオの胃に入る。食事が旨い。アキオはいま飯を喰っている。